東町屋台と東町神輿

東町屋台


昭和60年の維持大修理を終えての川瀬祭にて。今は懐かしい御仮屋である。
昭和60年の維持大修理を終えての川瀬祭にて。今は懐かしい御仮屋である。

現在の東町屋台は昭和8年(1933年)、当地の大工棟梁・丸岡治助らによって完成された。総体黒漆塗り金具打ちで彫刻は極彩色の豪華絢爛な屋台である。屋根は四棟造り(東町の他は秩父夜祭の上町屋台のみであり、上町は昭和12年に四棟となる)、土台には登勾欄が付設されている。屋台の形式は内室式になっている。

 

創建時、回転方法は秩父地域の屋台で初めてキリンを採用した。地元の鉄工所(引間唯吉氏)作である。平成13年(2001年)より、屋台の回転方法が以前のキリンから梃子棒・ギリ棒に変更になったが、平成30年(2018年)には、技術伝承のためキリン方式に復された。

 

鬼東原案と東町屋台の軒提灯
鬼東原案と東町屋台の軒提灯

昭和60年には維持大改修が行われた。この時に主に変更となった屋台の意匠は次のとおりである。

 

・化粧垂木を本繁垂木とする(垂木と垂木の間を密にする)

・勾欄嵌めを極彩色の菊花紋とする

・餝金具で用いる東の字を「鬼東」とする

・軒提灯(ほおずき)の東の字を「鬼東」とする

 

「鬼東(おにひがし)」とは

(※故・相澤英男氏所有資料から原文のまま掲載)

 

東町屋台昭和六十年改修金具及び提灯の文字

中国の碑文より岩に沢山の文字が刻んで有る中より取った東の文字に新木の棟梁(坂本才一郎先生)に依り多少手を加えて図案化した

 

東町屋台の詳細


昭和8年、団子坂下(現在の御花畑駅付近)での記念撮影
昭和8年、団子坂下(現在の御花畑駅付近)での記念撮影

創建:昭和8年(1933年)

型式:四棟屋根 土台登り高欄付 内室(うちむろ)形式

総体:黒漆塗、金具打、彫刻極彩色

※創建当初は土台のそり木は笠鉾の物を使用。昭和十年に現在の物に取り替わる。

寸法:間口柱真々四尺六寸 奥行七尺 高欄真々五尺七寸及八尺

 

請負人:丸岡治助

工作人:丸岡一郎

大工世話役:久米三善

塗師:豊田武作(秩父町上町)

彫刻:内山良雲・内山光一郎(埼玉村宇野)、高橋幹治

錺金具:高橋平右衛門(埼玉村宇野)

擬宝珠:串田長五郎(高岡市)

木材:諸 寛敬(中川村)

金物:引間分工場(秩父町)

御簾:矢尾商店(秩父町上町)

彩色天井:皆川月華(秩父町中町)

腰幕:東屋染物(秩父町東町)

※括弧内は当時の資料に記載の住所表記

 

屋台の製作費については丸岡氏所蔵の東町屋台新設見積書によると次の通りである。

屋台一基 一金弐千四百参拾六円四拾四銭也

※当時の物価

米一俵(60kg):五円五十銭

大工手間:五十銭

 

東町の屋台の彫刻は、いわゆる昔話に題材を求めたり、腰支輪では水に関係のある動物を何種も刻むなど、ユニークさに富んでいる。また、内室の周囲には皆川月華(1886〜1952、同名の染色家とは別人)の筆による雲龍(墨絵)の襖天井を廻す。※当ウェブサイト背景画像で採用。

 

東町屋台の彫刻の内容・構図は次のようになっている。

 

前鬼板    源頼政 

前懸魚    鵺退治、猪早太

前内破風   雲

左妻鬼板   雲に麒麟

左妻懸魚   雲に麒麟

左妻内破風  雲

軒支輪    雲に鳳凰

前欄間    松に錦鶏鳥

前立隠左   因幡の白兎

 

前立隠左   松に大国主命

左妻欄間   桜に尾長鳥

 

左妻立隠左  桜に尾長鳥

左妻立隠右  菊に尾長鳥

内室蹴込   波

登高欄下蹴込 龍

 

 

後鬼板    龍

後懸魚    龍

後内破風   雲

右妻鬼板   牡丹に唐獅子

右妻懸魚   雲に子獅子

右妻内破風  雲

腰支輪    波に鯉、千鳥、亀、鴛鴦

後欄間    松に雀

後立隠左   養老の滝へ行幸した天皇

 

後立隠右   孝行息子と養老の滝

右妻欄間   松に鶴

 

右妻立隠左  菖蒲に鷺

右妻立隠右  松に鶴

登高欄下   波

 

※こちらの設計図(画像参照)では内室立隠が前後逆となっている。


歴代の山車の歴史


曳物の時代

 

創建年代は明治17年(1884年)といわれている。勾欄のない特異な土台部分の中央に柳の木を立て、その下に釣鐘をつり、供物のようなものを並べている。土台には腰支輪彫刻もあったらしい。これは明らかに屋台でもなく笠鉾でもない。したがって曳物として分類するのが適当と思われる。初代曳物の遺構は現存していない。

 

 

笠鉾の時代

 

明治32年(1899年)頃に横瀬町宇根より購入したのが東町笠鉾である。この笠鉾は、3層花笠で総高10メートル以上はある立派なものであったが、宇根時代は一層花笠だったので、購入時に東町で改造したものと思われる。その後、大正3年(1914年)の電線架設によって曳行不能となり有名な「胡瓜棚の屋台」に改造された。

 

笠鉾は土台部分の上に一層花笠、二層花笠、三層花笠、万燈、せき台、天道となっていた。土台部分は総体黒漆塗り金具打ち、腰支輪などの彫刻及び登り勾欄はついていない。

 

 

 

明治30年頃の川瀬祭(神社境内) ※井上孝氏提供写真


 胡瓜棚の屋台

 

大正3年(1914年)、電線架設で曳行できなくなった笠鉾の土台部分を使用して誕生したのが「胡瓜棚の屋台」である。土台部分の上に青竹の棚を組んでたくさんの胡瓜をぶら下げ、土台の中央には三方に供えた大胡瓜三本を載せていた。これらの胡瓜はすべて模造品であった。

 

この電線問題に対して、番場町は土台の上に神武天皇の人形(3年間のみ)、宮側はいち早く内室式の屋形を付設、上町は土台に柳の木を立て小野道風の人形、中町は笠鉾の高さを短縮するなどの対応がみられた。

 

胡瓜棚の屋台としては数年曳行されたが、特に昭和に入ってからは笠鉾として曳行することがほとんどであった。当然のことながら、笠や万燈等は笠鉾のものを使用したと思われる。しかし、電線があるために高さは大幅に短縮され、現在の川瀬祭の笠鉾位になった。

 

現在の東町屋台の製作については、大正天皇崩御により祭ができなかったことを機に、資金積立が開始されたという。また、昭和初期、本町・宮前商店(時習堂)の裏付近においてこの笠鉾の真柱が根元から折れる事故が発生したが、このことが、現在の屋台建造のきっかけの一つになったといわれている。

 

この笠鉾は、昭和8年(1933年)、現在の東町屋台の完成により小鹿野町上一丁目へ売却された。今でも上一丁目笠鉾の金具には「東」という字が残っている。

胡瓜棚の山車(屋台)
「東町だより第一号」(昭和50年発行)掲載の「胡瓜棚の山車」イメージ画。当時の記憶をもとに地元の故・森田実太郎氏(画家)が作画した。

東町屋台彫刻「因幡の白兎」


昔、因幡という国に白いうさぎがおりました。ある日、うさぎはサメにウソをついて海面に並ばせて向こう岸に渡ろうとしました。しかし、だまされたことに怒ったサメに皮をはがされ大けがをおってしまいました。 

 

体が痛くて泣いていると、大勢の神様が通りかかりました。大勢の神様は、美しい八上比売(ヤガミヒメ)の所に結婚を申し込みに行く途中でした。泣いているうさぎに大勢の神様は、「海水を浴びて風に当たるように」と言いました。その通りにすると、良くなるどころかもっともっと痛くなりました。大勢の神様たちはうさぎにいじわるを言ったのです。     

 

するとそこに、いじわるな神様たちの荷物をもたされた優しい神様がやってきました。泣いているわけを聞いた優しい神様は、「真水で体を洗い、ガマの穂をほぐしたところに寝っ転がりなさい」と言いました。

 

うさぎが言われた通りにすると、体がすっかり良くなりました。うさぎは感謝して何度もお礼を言いながら言いました。「ヤガミヒメは心の優しいあなたと結婚するでしょう。」 

 

それから、うさぎが言ったように優しい神様はヤガミヒメと結婚しました。やがて優しい神様は大国主命(オオクニヌシノミコト)と呼ばれるようになり、人々からたいそう大事にされるようになりましたとさ。

東町神輿


昭和47年(1972年)、神輿新調後初めての川瀬祭での宮参り(写真提供:齋藤豊氏)
昭和47年(1972年)、神輿新調後初めての川瀬祭での宮参り(写真提供:齋藤豊氏)

現在の東町神輿は二代目であり、初代は樽神輿であった。昭和46年(1971年)に夏祭行事を中心に神輿新調の計画がなされ、町内寄附を募り、めでたく神輿の新調となった。請負人は東町の太鼓購入、張替も行っている東京浅草の宮本卯之助商店である。

 

餝金具を多用した豪華な造りの江戸前神輿であり、屋根には大鳥(鳳凰)を冠し、屋根紋には昭和60年の維持大修理前の屋台の餝金具等でもみられる東の紋を使用している。鳥居神額には「八坂神社」の字が刻まれ、大輪には四神が彫り込まれている。

 

昭和47年7月9日、晴れて新調神輿の引渡しを受け、神輿新調奉祝祭を開催した。こちらの写真は当年の川瀬祭において新調神輿の初宮参りの様子であり、今も現役の町内諸先輩方の若りし姿を見ることができる。